mirohiGG’s blog

「人生楽しんだ者勝ち!」をモットーに、仕事やプライベートを楽しみ、過去や近況を発信します。

転職の経験で本当に学んだこと!その1

 はじめまして、mirohiGGです。

 

思えば、私が若いころはまだ「会社を辞めることは悪いことだ。」と言う風潮が残っていました。間違いなく。

 

一度就職したら、そこで一生その会社に尽くすことが正しいことだと言われ、やめる人間は、我慢が足りない根性のない人間、と思われた時代だったような気がします。

 

私は、証券会社に就職しましたが、両親の怪我と病気が重なり故郷に帰りました。

そして数年後、今の奥さんと出会い結婚しました。

 

しかし、生活するにはまだ私の甲斐性(給料)が足りなかったのです。

私は、結婚後しばらく経ってから、そのことを知ることになりました。

 

奥さんは私に気を使い、そのことを黙っていたのです。

何も知らなかった自分の馬鹿さ加減がすごく情けなく、奥さんへの申し訳なさでいっぱいになりました。

 

それから、会社に認めてもらうために、必死で仕事をしました。

「男として、奥さんに働いてもらわなくても食べていけるぐらい稼ぐこと。」

「奥さんの夢である、小さくても自分の家を持つこと。」

を目標としました。

が、昇給は数千円でした。これが現実です。

(その会社は、当時業界で国内第3位、現在では業界トップの会社でした。)

 

ここから私の転職チャレンジが始まりました。

 

「私は頑張っている。」皆がそう言うのです。

仕事を頑張るだけでは、給料は上がらない。

社員は皆頑張っているのだから。 

大事なことは、どれだけ会社にとって必要な人間なのか?

本当に会社が危機的状況の時に会社を救う力があるのか?

”ゴマすり力”は関係ないと信じたいが、もはやそんな年齢ではない。w

 

それから数年後、自分の力を思い知る時が来ることになるのです。

 

30歳、会社倒産!

娘3歳、目標を立てたときに在籍していた会社の2倍の給与。

その会社は、県内の業界で有名な会社でした。

しかし、私は社長や課長に言われるままに仕事をしていました。(役職は経理課長補佐)

金融機関以外からの借入もあったのです。

 

ある朝、支払手形の期日に社長が出社されず不渡り。

債権者や銀行が押し寄せるという絵にかいたようなパターン。

玄関ドアのガラスは割られていました。

社長の車も持っていかれていました。(民法上、自力救済は認められていませんが)

外注費だけを、残りの現金から少しずつ振り込み支払いました。(個人事業者の方々)

社員も当然大騒動です、社員の給料は支払えません。

 

ここからは、社員の明日の生活のために、急いで必要なことをやれるだけやる。

雇用保険の給付の交渉のため、公共職業安定所へ行く。

公共職業安定所長と交渉したところ、社長の念書を提出するように言われましたが、社長不明、会社実印、会社ゴム印不明の説明をし、専務に代書していただき、押印ということでご納得いただきました。(離職理由は会社都合)

実際は、私が代書して印鑑は専務にお借りして、公共職業安定所長へは専務名で提出しました。

②健康保険手続きのため、社会保険事務所へ行く。

社会保険任意継続、国民健康保険への切り替えの手続き。

 

早速、社員へ書類を配布説明し、ほんの少し落ち着いてもらいました。

   

その後、しばらくして、

また一緒に仕事をしようと言っていただいた専務、多くの社員に慕われ、尊敬していた専務、

本当に社員思いだった専務は、自らの命を、、、、、、、。

合掌 享年43歳

 

結局、

私には、まだ経営者への改善案や対策の提案力、仕事への創造力がなかったのです。

 

 経理財務職として、私はまだ本気で仕事をしていなかったのです。

 (今考えると、この経験に対する反省が、非常に今後の仕事に対する考え方の基礎になっていることは間違いありません。)

 

私は、それからしばらくの間、病んでいたかもしれません。